デイヴィッド・リンチの言葉
- Sumio Kobayashi
- 4月30日
- 読了時間: 16分
大体制作のためになる誰かの言葉というのは、哲学思想系の何かか文芸批評、そして映画監督の言葉だった。特にデイヴィッド・リンチや押井守さん、小島秀夫さんの言葉が参考になった。
そんなこんなでリンチの講義の言葉をまとめて、自分の勉強用のファイルを作ってみました。まだ未完成なものの、いつまでたっても完成しないので、仮のものをとりあえず記載、自分で読むために。著作権的なことも配慮して要約的な内容にしています:
リンチはまず、『アート・ライフ』とは何かというところから話し始める。彼にとってそれは、ただ芸術作品を作るという意味ではない。生き方そのものが、仕事をすること、作ること、形にすることのまわりに組み立てられている状態を指している。映画でも、絵画でも、版画でも、音楽でもよい。どの媒体であっても、その世界は無限に深く、本当に入っていけば、さらに深く潜っていける。彼は、金のために作られる映画や、娯楽としてだけ組み立てられる映画の存在を認めつつも、自分を動かすものはそれではないと言う。彼を支えているのは、作るという行為そのものへの愛着であり、その過程に身を置いているときにこそ、さらに次のアイデアが流れ込んでくるという感覚である。
その中心にあるのが『アイデア』だ。リンチは、アイデアがなければ人は何をしたらよいかわからない、と言う。逆に、ひとつのアイデアがやって来れば、そのアイデアが進むべき方向を教えてくれる。彼にとってアイデアは、平たい情報ではない。映像であり、音であり、気配であり、温度であり、感情を含んだ全体としてやって来る。だからこそ、それを見つけたらすぐに書き留めなければならない。しかも後から読み返したときに、そのアイデアが持っていた空気ごと戻って来るような書き方で残しておく必要がある。彼は、自分の人生の中で素晴らしいアイデアをいくつか失ってしまった気がする、と率直に言っており、その喪失感が、メモを取ることの切実さをよく物語っている。
この『アイデアをつかまえる』ということを説明するために、リンチは釣りの比喩を使う。アイデアへの欲望は、釣り針につける餌のようなものだ。餌を水の中へ垂らし、辛抱強く待っていると、ある日ふいに魚がかかる。その魚がアイデアであり、意識の表面へと浮かび上がってきた瞬間に、私たちはその姿を細部まで見ることができるようになる。そして一匹を釣り上げると、その魚そのものがまた次の餌になり、同じ群れに属する別の魚、つまり関連した断片や場面や人物たちが次々と寄って来る。脚本はそうやって立ち上がっていくのだと彼は語る。さらに別の比喩も出てくる。別の部屋に完成したパズルを持っている誰かがいて、そのピースだけを一枚ずつこちらへ投げ渡してくる、というイメージだ。最初のうちは意味をなさない破片に見えても、やがて全体像が姿を見せ始める。
ここで重要になるのが直感である。リンチは直感を、人間にとって一番大切な道具だと言う。理性だけでも感情だけでもなく、その二つがひとつになった『感じながら考えること』、あるいは理由を越えた『わかる感じ』として語っている。彼はさらに、それを意識の深さと結びつける。直感は、欲しいと思っても表面で真似するだけでは増えない。もっと深いところへ降りていかなければならない。彼はシェフの比喩も用いる。シェフは魚そのものを作るのではなく、釣られてきた魚をうまく料理するだけだ。芸術家も同じで、根源的なアイデアそのものをねつ造するのではなく、やって来たものをどう受け取り、どう実現するかが問われる。
しかしアイデアは、清潔で抽象的な世界だけから来るのではない。リンチは、この世界には暴力、腐敗、苦しみ、怒り、恐れ、混乱が満ちていると言う。物語は、そうした世界から立ち上がる。けれども彼はそこで、とても大きな区別を入れる。苦しみや暴力は作品の中にはあってよい。だが、それがそのまま芸術家自身の生活を支配する必要はない。苦しみを描くために、作り手が破滅していなければならないわけではない。むしろ非常に幸福であっても、苦しみを正確に、深く、真実に描くことはできる。この考えは後半でヴァン・ゴッホの話に結びついていく。
彼はまた、人間の内側には『ホッパー』のようなものがあると言う。子どもの頃の印象、夢、友人、恐怖、恥ずかしさ、見たもの、聞いたもの、世界から受け取った衝撃、それらが全部その中に溜まっていく。若いときにはその窓が大きく開いていて、いろいろなものがどんどん入ってくるが、年を取ると少しずつ閉じていき、やがてそこに蓄えられたものを材料にして考えるようになる。彼が子どもだった頃、夜の暗がりから傷ついた裸の女性がふらりと現れたという記憶を語る場面は、その象徴的な例として語られる(マルホランドドライブにあった場面)。あまりにも強い光景は、人の内部に残り続け、後になって作品の空気やイメージの源になる。
そこから彼は『白昼夢』の重要性を強調する。多くの人は、自分には言うべきことがないと思っているかもしれない。けれどもそれは、本当に何もないのではなく、ただ一人で座ってぼんやりする時間、思考がゆっくり沈んでいく時間が足りないだけかもしれない、と彼は言う。白昼夢は外から見ると何もしていないように見える。だが、その『何もしていない』時間こそが、深い場所からアイデアを引き上げるためには不可欠なのだ。現代社会では誰もが忙しすぎて、こうした時間を失っている。しかしアイデアは、ふとした瞬間に飛んで来ることもあれば、長く温めていた欲望のまわりにゆっくり集まって来ることもある。だからこそ、何もしないように見える時間は、創作にとって贅沢ではなく必要条件になる。
その反対に、アイデアの流れを塞いでしまうものもある。ストレス、悲しみ、抑うつ、不安、怒り、恐れ、疲労。リンチはこうした状態が『アイデアの通る管をぎゅっと締めつける』と言う。魚が逃げてしまうのである。眠りは浅くなり、心は曇り、幸福も活力も細っていく。創作の問題は単なる技術論ではない、という彼の話はここでよくわかる。つまり、作品を作るには手順や技能だけでなく、アイデアが入ってこられるだけの内的な空間を守ることが必要なのだ。
書くことについて話す場面でも、リンチは神秘的であると同時に非常に実務的だ。彼は公式や定型を嫌う。脚本学校で教えられるような『型』は、彼にとってはほとんど死刑宣告のようなものだという。書くというのは、まずアイデアを覚えておくための行為であり、流れ始めたものを止めずに乗せていくことが大切だ。あとで削ること、見直すことは必要だが、最初から形に押し込めるべきではない。長編映画を作りたいなら、七十ほどの場面を手に入れればよい、と彼は言う。その場面をカードに書いて並べていけば、映画は見えてくる。黄紙のメモ帳とボールペンを前にして、たとえ最初の九割が駄目でも、どこかで『金脈』に当たる瞬間が来る。そこから一気に何かが流れ出す。その経験を彼は信じている。
人物も同じようにやって来る。キャラクターは組み立てるものというより、ふいに現れるものだ。白昼夢の中にすっと入ってくることもあるし、何かの顔や仕草や声から突然立ち上がってくることもある。そうすると、その人物が何を着ているか、どう話すか、早口か遅口か、どんな声の温度を持っているかまでわかるようになる。リンチは、人物だけでなく、場所も、雰囲気も、音も、音楽も、全部アイデアだと言う。だから彼の世界では、プロットとムードは切り離せない。たとえば食堂の場面を考えるとき、コーヒーの匂い、機械のうなり、皿やフォークの音、窓の外の光、ジュークボックスから流れる曲、そうしたものが全部ひとまとまりでやって来る。脚本とは、出来事の骨組みではなく、『秩序づけられたアイデア』なのである。
だから映画作りで一番大事なのは、最初に惚れ込んだアイデアに忠実でいることだ。衣装も、家具も、声の大きさも、照明も、部屋の壁紙も、すべてはその最初の感覚に対して正しいかどうかで決まる。映画は無数の小さな要素から成り立っているが、そのひとつひとつが正しい場所に落ち着いたとき、全体は単なる足し算を超えて、魔法のように立ち上がる。彼が『映画の魔法』というとき、それは特別な効果のことではなく、細部への忠誠から生まれる全体の生命のことを指している。
この考え方は、他作品から借りることについて語るときにも変わらない。『ワイルド・アット・ハート』の中の『オズの魔法使い』への参照を例に出しながら、彼は借用の是非を抽象的な道徳で裁こうとはしない。それがキャラクターたちにとって本当に生きているものであり、その映画の内側で自然に呼吸しているなら、それは単なる模倣ではなく、作品の真実の一部になりうる。彼にとって重要なのは、外から見た正しさよりも、そのアイデアが内側から本当にそうありたいと望んでいるかどうかである。
講義の中盤から後半にかけて、話はかなり具体的になる。芸術家の人生を送るには、現実的な条件を自分で作らなければならない。金持ちでなければ、生活のための仕事をしながら、少しずつ時間と道具と場所を確保していくしかない。リンチは、薬を配達した話、新聞配達をした話、小さな仕事場を持った話、AFIで恵まれた空間を得た話などを語り、自分なりの『セットアップ』を作ることがどれほど大切かを語る。セットアップとは、作業する場所であり、材料であり、機械であり、要するに作るための土台そのものだ。作品は情熱だけでは作れない。机が要る。道具が要る。そこへ戻って行ける場所が要る。
そして彼は、途中で遮られない時間の必要を強く訴える。四時間の中断のない時間があって、やっと一時間の本当の仕事ができる、という友人の言葉を彼は引いている。中断は思考の真ん中にナイフを刺すようなものだという。だから創作のためには、時間と空間を守ることが必要になる。外から見るとそれは利己的に見えるかもしれない。しかし彼にとってそれはわがままではなく、仕事そのものに対する責任である。
学び方についても、彼は『やってみること』を重視する。カメラやレンズや照明や音や編集機の知識は必要だが、本当に重要なのは、それを実際に触り、撮り、見て、失敗し、やり直すことだという。そうしているうちに媒体そのものがこちらに語り始める。映画が、あるいは絵が、どう扱われたいかを自分から見せてくる。彼が映画に入っていったきっかけも、もともとは絵だった。暗い画面の中の緑が動き出し、絵から風が吹いてきたように感じた。その瞬間に『動く絵』というアイデアが生まれ、そこから映画の道が始まった。ここでも彼は、最初から映画を志した人間としてではなく、来てしまったアイデアに従って別の場所へ導かれた人として自分を語っている。
その後、彼は映画史や好きな監督たちの話をする。作品を全体として見るだけではなく、編集、音楽、音響、衣装、美術などの部門ごとに見ていくことで、映画がどれほど多くの要素の組み合わせでできているかが見えてくるという。ビリー・ワイルダーについては、タイミング、人物、場所の感覚の素晴らしさを語り、『サンセット大通り』や『アパートの鍵貸します』をほとんど愛の告白のように称賛する。『チャイナタウン』については、映画が終わったあとも夢を見る余地を残していると語る。フェリーニやカプラについても同様で、彼が映画に求めているものが、独自の世界、人間理解、余韻、そして言い尽くされない謎であることがよくわかる。
キャスティングの話に入ると、彼の直感はまた別のかたちをとる。役に『うまい人』を選ぶのではなく、その役を映画全体を通してほんとうに生き抜ける人を探す。顔、話し方、歩き方、気配、その人が場面の中をどう通っていくかを頭の中で追っていく。ある役を受けに来た人が、実は別の役にぴったりだと見えてくることもある。ローラ・ダーン、カイル・マクラクラン、シェリル・リーについて語る箇所では、俳優の中に複数の人物が潜んでいて、こちらがその可能性に気づくことで新しい役が見えてくる、という感覚が強く示されている。
俳優を演出することについて、リンチは非常に丁寧に話す。俳優は、役を深いところから本物にするだけの理解にたどり着かなければならない。監督は、その演技のどこがまだ正しくないのかを直感で感じ取り、声の大きさか、間か、立ち方か、考え方の深さか、その原因を見極めなければならない。そして、それを俳優が恥をかかない形で伝える。彼は、俳優を怒鳴ったり、馬鹿にしたりするやり方を明確に退ける。大事なのは、俳優が安心して自分自身の性格を脇に置き、別の人格を引き受けられるようにすることだ。リハーサルはそのための時間であり、最初は遠かったものが、説明と試行を重ねるうちに少しずつ近づき、ある瞬間に電球が灯るように役が腑に落ちる。そのとき、役は俳優のものになる。
この『安心できる場』という考えは、そのまま撮影現場全体にも及ぶ。リンチは、現場は幸せな家族のようであるべきだと言う。まるで毎日感謝祭のように、皆が気持ちよく働ける場であるべきだ、と。恐怖で支配する現場は愚かだと彼は言う。恐怖は嫉妬や恨みや緊張を生み、創造性を痙攣させる。幸福な現場の方が、結局はいい仕事をする。これは単なる性格論ではなく、アイデアの流れと直結した話として語られている。彼は撮影の一日の始まりを、深い峡谷にガラスの橋を架けていくようなものだとも表現する。朝のうちは何もかも壊れそうで、うまくいく保証がない。けれども一日が終わる頃には、そのガラスが鋼鉄に変わっている。ちゃんと撮れた、アイデアに忠実なものが手に入った、という感触がそこにある。
現場での具体的な手順についても彼は話す。まず俳優たちだけでリハーサルし、動きや意味を整える。その後でスタッフを呼び込み、照明やカメラを組む。ショットの組み方自体は、彼が言うにはとても常識的で、ワイド、ミディアム、クローズアップが基本になる。ただし重要なのは、派手な技法ではなく、そのショットがアイデアに対して正しいかどうかである。たとえ一回のテイクで全部が揃わなくてもよい。別のテイクで残りを手に入れればよい。大切なのは『金』を撮ることだ。時間通り、予算通りに終わっても、作品が駄目なら意味がない、と彼は強く言う。
美術とロケーションについての話も実に印象的だ。監督の頭の中にある世界を、言葉やラフなスケッチを使って美術部や衣装部に伝えていく。家具、窓、部屋の形、時代感、壁紙、灯り、空気。図が下手でも、言葉が生きていれば伝わる。そしてロケ地は、頭の中のイメージに合うだけでなく、時にそれ以上の贈り物をくれる。リンチがある油槽所を『地球上でもっとも美しい場所のひとつ』のように語る場面や、『DUNE/砂の惑星』のデザインの話の中でヴェネツィアの夜の館の印象を語る場面には、現実の場所そのものからアイデアが逆流してくる感覚がよく表れている。ギルド・ナヴィゲーターを『肉の草/hopper』のようなものとして考える話も同じで、曖昧な幻想を、具体的な手触りを持った存在へと変換していく過程が見える。
『ツイン・ピークス』のボブ誕生の話は、この講義の中でも特に象徴的だ。ローラ・パーマーの部屋のセットで、セットドレッサーのフランク・シルヴァに向かって『その部屋に自分を閉じ込めないで』という声が聞こえたとき、リンチの中で何かが引っかかった。彼は理由もわからないままフランクをショットに入れる。その後、別の撮影で鏡に偶然フランクの姿が映り込み、そこからボブという存在が育っていく。リンチにとってこれは偶然の小話ではない。注意深く開かれているとき、作品が必要とするものは事故のかたちでやって来ることがある、という実例なのである。
音楽と音についての話になると、彼の言葉はいっそう感覚的になる。音楽はただ良ければいいのではなく、映像と『結婚』しなければならない、と彼は言う。しかも、どの曲かだけでなく、どこから入り、どう膨らみ、どう去っていくかまで含めて重要なのだ。『ブルーベルベット』で本当は『Song to the Siren』を使いたかったが叶わず、フレッド・カルーソの勧めでアンジェロ・バダラメンティと作り始めた、という話は有名だ。彼はアンジェロの横に座り、場面の言葉や感触を語りながら、アンジェロがピアノを弾く。言葉を少しずつ変えていくうちに、音楽が突然ぴたりと心に触れてくる。その瞬間、映像と音楽が本当に結ばれたのだと彼は感じる。音響についても同じで、アラン・スプレットのような耳の持ち主への敬意が示され、音は映画の感情を担う中心的な存在として扱われている。
後半には、制約、失敗、そして自由についての大切な話がある。リュミエール兄弟の原初のカメラを使ったときには、三回しか撮れない、自然光だけ、編集なし、ワンショット、といった厳しい制限があった。だがリンチは、そうした制約こそが工夫を呼び込むことがあると言う。必要性は発明の母だという考えが、ここでは単なる格言ではなく、実感として語られる。さらに彼は、自分にとって『DUNE/砂の惑星』が大きな失敗だったと語る。だが、深く失敗したあとには、不思議な自由があるとも言う。下まで落ちれば、そこから上がるしかない。成功はときに大きな重圧をもたらすが、失敗は解放にもなる。その解放感の中から『ブルーベルベット』が出てきたのだと彼は話す。
そして、ここでヴァン・ゴッホの話が出てくる。リンチは、苦しみが芸術にとって良いものだという通俗的な考えに対して、はっきりと異議を唱える。人はすぐにヴァン・ゴッホを例に挙げる。だがリンチの語りの流れは、苦しみそのものを芸術の源として美化することを拒む方向へ向かっている。偉大な芸術家たちは、苦しんだから偉大だったのではなく、作ることを深く愛していた。もし苦しみがなかったら、もっと自由に、もっと豊かに作れたかもしれない。少なくとも、苦しみを芸術のために必要なものとして崇めるべきではない、というのがリンチの立場である。これは講義全体を貫く大きな倫理でもある。→清貧が正しいというわけではない、金持ちに絵が描けないとする人たちへのアンチテーゼだと言える。
講義の終盤で彼は、『観客のために作る』ことの危うさについても話す。映画は完成までに非常に長い時間がかかる。そのころには、想定していた観客はもう別の観客になっているかもしれない。だから観客を読んで作品を作ろうとしても、結局その予測は外れるかもしれないし、その過程でアイデアそのものを裏切る危険がある。芸術家にできるのは、アイデアに対して誠実であり、それをできるかぎりよい形で作ることだけだ。世に出したあと、作品はもう自分の手を離れる。だからこそ、最後に残るのは、自分の声に忠実であったかどうかである。彼は最後に、もう一度『自分の道を見つけ、自分の声を見つけ、妥協しないこと』を言い残して講義本体を閉じる。
さらに超越瞑想についてのかなり長い補足が付いている。ここでリンチは、物質と心、統一場、純粋意識といった話をし、自分なりの簡単な図まで描いて説明する。人は表層の思考だけで生きているのではなく、もっと深いレベルの意識へ沈んでいくことができる。超越瞑想は、その深い層に触れるための技法であり、そこには無限の知性、創造性、幸福、愛、エネルギー、平和があるのだと彼は語る。定期的にそこへ触れることで、怒りやストレスが減り、人生も仕事も変わる、と。つまり、この補足部分は単なる余談ではない。講義の前半でずっと語られていた『どうすればアイデアの魚が寄ってくるのか』『どうすれば直感に触れられるのか』という問いに対する、リンチ自身のもっとも率直な答えがここに置かれているのである。
こうして見ていくと、彼の話 は単なる映画の作り方講座ではない。アイデアとは何か、芸術家はどう生きるのか、作品の中の暗さと作り手の幸福はどう両立するのか、直感や白昼夢や沈黙はなぜ必要なのか、失敗はどう人を自由にするのか、そして自分の声に忠実であるとはどういうことか――そうした問いを、リンチは技術論、思い出話、比喩、冗談、そして少し神秘的な確信を交えながら語っている。彼の言葉はしばしば詩のようで、明快でありながら完全には説明しきらない余白を残す。けれども、その全体を通して流れているのは非常に一貫した信念である。いいアイデアはどこかからやって来る。こちらの仕事は、それを見逃さず、愛し、守り、できるだけ壊さずにこの世界へ連れて来ることなのだ。